東日本大震災発生から今日で丸13年になります。
福島第一原発の廃炉作業を含め、今もなお地震の大きな爪痕は残ったままです。この場を借り改めて、亡くなった多くの方たちのご冥福をお祈りするとともに、いまだに避難生活を余儀なくされている方々に心からお見舞いを申し上げます。
当時メディアでも頻繁に取り上げられましたが、三陸地方は過去に何度か巨大地震に見舞われています。2011年より前では、今から128年前の明治29(1896)年6月15日の夜に発生した大地震が直近といえます。明治維新後の近代メディアに記録が残った震災記録のうちでも初期のものの一つです。この時も13年前と同じく大津波が沿岸を襲いました。『東京朝日新聞』6月21日の記事には「十九日午後九時岩手県知事発 只今迄の報告に依れば流失戸数五千三十、死者二万二千百八十六、負傷千二百四十四人の儀具申す」とあり、発生から4日目にして岩手県だけで死者の数が二万人を超えているのがわかります。遡って同19日の記事では「被害の実況調査の上ならでは確定せざるべしと雖も何様近古未曾有の惨状なるを以て免税の沙汰あるべし」との論調も見られ、あまりの被害の甚大さのために、被災地における免税措置の必要が早くも俎上にのぼっています。また同新聞では、現地の惨状についての伝聞を『惨話一束』と題して長期で掲載しました。そのうちのいくつかを抜粋します。
「一婦人頸と腕に大傷を負ひ乍ら手に握りて離さぬものあり。麻の葉がたの木綿の片袖なり。子供を助けんとて袂を握りしに子供は波に攫はれ残れるは此片袖」
「一家悲惨の中何も知らずに戯むるる小児、死したる母の乳房に縋りて頻りに乳を飲まんとする小児、人をして腸を断たしむ」
「三十二三の妊婦辛くも逃げ走る途中に於いて出産して其儘怒涛に捲き去られ赤子のみは打揚げられて呱々の声高く山の半腹にありき」
このような惨状を受け、当時のロシア正教会宣教師ニコライ(東京在)もその日記の中で「(信徒が)現地の情景を話してくれた。聞いていると涙が出てくる」(岩波文庫『ニコライの日記』(中村健之介 編訳)より)と述べています。
このたび発生した能登半島地震も、阪神淡路や東日本の大震災も、100年後200年後の子孫のために、日本人全体の記憶として受け継がれていくよう、現代を生きる我々が記録していかなければならない使命を負っているのだと思います。

