仕事柄よく道内を走り回ります。
少し走ればいたるところに史跡や旧跡が点在する本州と異なり、北海道では歴史的遺物を目にすることはそれほど頻繁ではありません。理由としては、まず北海道が広いこと。今も昔も人の住みついたことのない広大な土地には、当然、人間が生活した痕跡や記録は残されていません。そしてもう一つは、古くから北海道に住んでいたアイヌ民族が文字を持っていなかったということに関連するのではないでしょうか。記録媒体がなければ、歴史や文化はいわゆる口伝や口承文芸に頼らざるを得ません。もちろん史跡や村落(コタン)跡も残っていますが、和人の入植に伴い和式化洋式化する文化の中で、アイヌ民族の生活様式はかなりのものが破壊されていったに違いありません。それはあたかも、被征服者の文化が征服者の文化に駆逐されていく、という世界史の構造にも類似します。函館を中心にした北海道南部に史跡や史料が多いのも、道内のほかの地域より比較的和人の移住が早かったため、と、巨視的に見ればそう言えなくもありません。
そんな中、先日、道北の音威子府村の国道40号を走っていると、「北海道命名の地」標識を偶然目にしました。北海道では広く知られていることですが、松浦武四郎が蝦夷地探索の際に今の北海道の基になる「北加伊道」と名付けた、そのゆかりの地ということになります。この松浦武四郎については、当時過酷な待遇を受けていたアイヌに寄り添った数少ない和人の一人として有名ですから、ネットなどで検索していただければと思います。
滔々と流れる天塩川の畔に立つと、武四郎の頃から変わらない大自然だけがその存在を誇示し、移ろいゆく人間の生の儚さを思い知らされるようでした。きっと武四郎もこの景色を眺めながら、人間の歴史や文化といったものの矮小さと、争いの絶えない人間の浅はかさを痛感したのではないでしょうか。