太平洋戦争が終結してから80年の節目を迎えます。
最近よく耳目にするのは、年月を経るに合わせて戦跡(建物や兵器などの有形物と、証言や記憶など無形な物)が減ってきているということです。時間の経過により建造物などが朽ち果て、人や動物が寿命を終えるのは自然の摂理なので、当然と言えば当然なのでしょうが、これは〝戦争〟そのものも風化しているということを意味します。
考えてみれば、私(田中)のような昭和40年代生まれでも、誕生した時には戦後すでに20年以上が経過しており、当然戦争を実感できる世代ではありません。そういう意味では、平和な時代をのほほんと生きてきたと言ってもいいでしょう。
けれど、こんな私でもかつて一度だけ、実体験として〝戦争〟を強く意識したことがあります。
今から15年ほど前、私が沖縄県の竹富島で水牛車観光の仕事に従事しながら暮らしていた頃の話です。夏の或る日、会社の寮の前にある小さな畑をスコップで耕していました。竹富島は琉球石灰岩の岩礁でできた島ですので、そもそも耕作に適した肥沃な土地が少なく、土をほじくり返してもすぐに石灰岩礫にぶつかります。畑の土壌を良くするため残飯や落ち葉などをできる限り深くまで埋めようと、その日もスコップの先にぶつかる礫に四苦八苦しながら掘り進んでいました。
「キンッ」と、スコップが礫ではないものに当たった音がしました。掘り出すとそれは、手に収まるほどの大きさの、ちょうどミルク缶のような形状をした、赤褐色に錆びた金属の塊でした。スコップですくって近くで見ると、映画やテレビで見る手榴弾とまったく同じ形をしています。最初はオモチャかと思いました。しかし、オモチャにしてはずっしりと重くリアルすぎます。それに、人口350人ほどのこの島で、こんなオモチャを地中深くに埋める理由があるとは思えません。ここが沖縄であることを考えれば、これが「本物の手榴弾である」と思い至るまでそれほど時間はかかりませんでした(掲載した写真は私が発見した実際のものです)。もちろんこんな物騒なものを住居近くに置いておくわけにはいきません。私はその手榴弾をスコップに載せたまま、日中は水牛を繋いでいる広場の裏の空き地に捨てに行きました。広場と空き地は琉球石灰岩を積み上げた厚い石垣によって仕切られているので、もし爆発することがあってもそこなら大丈夫だろうと考えたのです。
しかし、その夜私は一睡もできませんでした。手榴弾の爆発ってどのくらいの威力なのだろう? 鉄片はどこまで飛んでいくんだろう? そもそもあの石垣で本当に防げるのか? 防げないとすれば、日中爆発した場合、花ちゃん(水牛の名前)も大ちゃん(左に同じ)も死んじゃうんじゃないのか? 思えば私は〝手榴弾〟という兵器について何ひとつ知りませんでした。
翌朝、社長に事情を話すと、石垣島からすぐに警察がやってきて空き地の周りに規制線を張りました。結果的に、手榴弾は腐食によってすでに火薬も信管も抜けており、爆発の心配はありませんでした。警察が検分したところでは、やはり旧日本軍が運用していた手榴弾で、八重山あたりでもよく発掘されるとのこと。ただ、当時の私の歴史認識では、沖縄戦の激戦地は沖縄本島を中心とした地域であり、西表島や石垣島などの八重山地方は、機銃掃射こそあったものの、米海兵隊はほとんど通り過ぎていったと記憶していました。
「島の人たちはみんな自決用に手榴弾を渡されてたさぁ」
社長の言葉に、殴られたかのような衝撃を受けたことを今でも覚えています。そして、私が島にいた当時戦後60年以上が経過していたにもかかわらず、旧日本軍が使用していた武器によって〝日常〟が脅かされた事実を考えたとき、数々の戦乱を経てきた歴史の同一線上に自分たちが確実に存在していることをしたたかに思い知らされたのでした。
最後に、戦跡についてのNHKのHPを紹介しておきます。

