明日8月15日、太平洋戦争終結からちょうど79年となります。
つい先日、パリで開かれた平和の祭典・オリンピックが閉幕となりました。日本選手団は国外開催の大会では過去最多となるメダルを獲得し、日本中が彼らの活躍に歓喜しました。日本人のみならず、私たちに勇気と感動を与えてくれた世界のオリンピアンたちに心から「ありがとう」と伝えたいものです。
パリオリンピックが開催されていたこの間、広島、長崎では79回目の原爆の日を迎えました。長崎の記念式典では、長崎市が招待しなかったイスラエルをロシアやベラルーシと同等に扱うのは遺憾であるとしてG7の駐日大使が参加を見送り、物議を醸しました。イスラエル招待の是非はさておき、ウクライナとパレスチナのガザ地区とが現在世界に注視されている紛争地帯であることは間違いありません。そしてそこでは多くの子供たちの命が失われています。そんななか、ロシアは核兵器の限定使用の可能性を示唆し、イスラエルも非公式な核保有疑惑を長年にわたって懸念されています。御大層な平和論をぶつつもりはありませんが、では、核兵器とはなんなのでしょうか? いえ、兵器とはいったいなんなのでしょうか?
私たち人間は日常の生活で腹立たしい思いをすることが多々あります。例えば、第三者が社会通念上の常識や交通ルールを守らないだけでも不快になりますし、詐欺などで騙された当事者ともなれば当然怒ったり恨んだりもします。場合によっては「死ねばいいのに」と思ったり、さらには「殺してやる」と呟いたりする人もいるでしょう。ただその中に、本気で人を殺してやろうと考えたことのある人はどのくらいいるでしょうか? どんなに相手を恨んでいても、「人を殺す」という行為はなかなかできるものではありません。しかし、よく言われることですが、戦争というものはその行為を容易にします。上官の命令という理由だけで、個人的には何の恨みもない人間を殺すことができるのです。そして兵器というのは、容易になったその行為を補助する道具にほかなりません。それはあたかも、速く走れないはずの人間を自動車が早く走らせ、飛べないはずの人間を飛行機が飛べるようにし、地球から出られないはずの人間をロケットが宇宙空間へと運んだごとく、理由もなく他人を殺せないはずの人間が、兵器によって他者を簡単に殺せるようになったのです。言ってみれば核兵器とは、ナイフや銃とは違い対象となる他者さえも目の前に存在しない、もっとも呵責なく、もっとも多くの他人を殺せる究極の道具ということになります。座ったまま簡単な操作を行うだけで、しかもたった一回の爆発で、何十万何百万の人間を殺戮し、何万何十万という子供の命を消し去ることができるのです。もしかしたらその子供たちの中には、将来医者や研究者になり自分や自分の子供が罹るだろう病を克服してくれる者がいたかもしれません。地球環境や世界平和に多大な貢献をするはずの者がいたかもしれません。でも、兵器という道具を携えて戦場に赴いたとき、人間は「殺人」という禁忌を捨てることで、そんな想像を忘れ去ります。愚かな為政者を担ぎ上げ、その為政者に導かれた人たちが、神と正義の名のもとに、神と正義に愛された人々を殺していくのです。世界大戦の記憶が遠くなり、自分や自分の家族が殺し殺されたりする想像ができなくなったとき、再び兵器は私たち日本人にも身近なものになっていくのでしょう。兵器はそれを虎視眈々と狙っているのかもしれません。