土方歳三こぼれ話に見る“歴史”の姿

 10月12日の北海道新聞日曜版に、新選組の土方歳三に関する記事が載っていました。東京日野市(土方歳三生誕地)の私設資料館において土方ゆかりの品々が展示されているとのことで、箱館戦争の松前攻略戦時に土方が逗留した宿のご子孫が、高祖母が土方からもらったお小遣い銭などを貸し出したそうです。この高祖母らからの言い伝えによると、土方は子供や女性に優しく、そんな土方に女性たちはみな夢中になったとのことです。〝鬼の副長″と恐れられた土方歳三のイメージとはだいぶ異なります。

 新選組が壬生浪(みぶろ)と揶揄されていた京都辺りではどうかわかりませんが、ここ北海道での土方歳三人気は他の維新人士と比べてもかなり高いものがあります。実は土方が北海道にいた期間は、彼の34年の生涯のうち、榎本武揚率いる幕府脱走軍が現在の森町鷲ノ木に上陸した慶応4(1868)年10月21日から、箱館一本木で戦死する明治2(1869)年5月11日までのわずか半年余りにすぎません。それでも北海道でこれだけの人気を誇るのは、「最後の侍ともいうべき武人の終焉の地」というロマン性と、その没地も含め彼の行動や足跡が他者の記録または口伝でしか残っていないという、土方のミステリー性に由来するところもあります(没地及び埋葬地に関する考察は、郷土史家の木村裕俊さんが伝聞などを拾い集め綿密な考証を行っていますので、ぜひ氏の著作等をご参照ください)。例えば、国立国会図書館デジタルコレクション【維新日乗纂輯】収録の『小野権之丞日記』などにも土方がちょい役のように出てきます。〈明治二年五月九日〉「晴戦なし玄頭被参土方畠山等来((はれ)(いくさ)なし。玄頭(げんばのかみ)参らる。土方、畠山ら来る)」。玄蕃頭は旧幕臣旗本の永井(ながい)(なお)(ゆき)のことで、蝦夷地に渡った幕府脱走軍の中では旧幕時代もっとも身分の高かった人間の一人です。畠山は、当直主任の畠山五郎七郎、もしくは旧幕時代からの蝦夷地在住の幕臣畠山万吉のことかと思われます。日記を記した小野権之丞は、かつて新選組を預かっていた会津藩の元藩士で、榎本武揚を首班とした箱館政権下では、医師高松凌雲のもと箱館病院で事務長を務めていました。土方が小野のところに来た明治2年5月9日というのは、土方が戦死する二日前のことです。幕府脱走軍の敗戦が濃厚ななか、新政府軍の総攻撃がすでに予想されていたので、おそらく土方は旧知の小野のところに最後の挨拶に行ったのではないでしょうか。

 我々が目にする〝歴史″というのは、変化を伴った事績に沿って描かれることが多いものですから、いわゆる歴史上の人物も時間軸上のほぼ点でしか現れません。いくつかの事績を考察することで彼の人がどのような人物だったかというのは大まかに把握することはできますが、内面を写し取ることはできません。土方歳三の史実だけを追えば、徹頭徹尾〝戦い″に身を投じた「鬼の副長」ということになりますが、先述のような口伝えや第三者の日常的な記録を通すと、公式記録では見えてこない一面が見えてきます。そういう意味では、伝聞やメモ程度の物でも重要な史料といえます。ただ、史料というからにはもちろん信憑性の検証も必要になってきます。例えば土方の場合なら、歴史上の人物としては比較的新しい部類に入りますから、口伝えなどによる記録でも常識を極端に逸脱することなく、意外な側面を覗くのに役立ちますが(それでも信憑性の検証となるとなかなか難しいのですが)、これが源義経くらい古くなってくると、奥州で自害したはずの人物が北海道の各所にも足跡を残し、果てはチンギスハンその人だ、ということにもなってきます。ここまでくると信憑性はかなり薄いですが、現代と違って当然写真やビデオなどのない時代ですので、まったくのゼロとは言い切れません。そしてこのゼロではないわずかな可能性が歴史を改変していく余地を与えます。本能寺の変で織田信長が炎に捲かれながら『敦盛』を舞った、なんていうのも、史実の上書きと言ってもいいのではないかと思います(もし実際に目撃者がいたとしても、その者も炎に捲かれて死んでいるはずです)。昭和に入ってからの戦中戦後史ですら、国内外において歴史認識の齟齬が起こっていることを考えると、歴史というものの姿を見極めることの難しさを思い知らされます。

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