国破れて山河在り

老齢な両親の様子を見に実家まで行く途中よく立ち寄る場所があります。

江別市工栄町工業団地の一隅に森閑と横たわる「榎本公園」の沿道は通り過ぎる人さえまばらで、私(田中)もまだこの公園内で私以外の人を見かけたことがありません。名前の由来は、箱館戦争時に日本初の入れ札(選挙)で旧幕府軍総裁となった榎本武揚にちなんでいます。

寒さの募る今しがた、155年前の1868年12月3日(旧暦・明治元年10月20日)、榎本率いる旧幕府軍が渡島半島内浦湾沿いの鷲ノ木(現 森町)の地に上陸しました(鷲ノ木上陸地碑|森観光協会|観光スポット (mori.hokkaido.jp))。一時は蝦夷地を占領した旧幕府軍でしたが、新政府軍に攻め立てられ五稜郭での攻防を最後に降伏、榎本は虜囚の身となります。獄中生活を送っていた数年のあいだ、薩摩藩士で新政府軍参謀だった黒田清隆などが熱心な榎本助命嘆願を行い、榎本は釈放されます。そして明治新政府に出仕し、日本の産業の近代化に取り組んでいきます。当初から蝦夷地(北海道)の開拓に思いを馳せていた榎本は、明治になってから北海道にいくつかの農場を経営するようになり、その一つが現在の「榎本公園」の位置する対雁にありました。

さて、福澤諭吉は「瘠我慢の説」福沢諭吉 瘠我慢の説 瘠我慢の説 (aozora.gr.jp)の中で、旧幕臣でありながら明治政府に奉職した勝海舟と榎本武揚を批判します。特に榎本に対しては、黒田と同じく、敗軍の将・榎本の助命を主張した福澤だっただけに「裏切られた」感があったのでしょう。まぁ、長く在野生活をしていた福澤には多少の僻みもあったのかもしれません。この福澤の批判に対し勝は持論をもって回答しましたが、榎本は「…昨今別而(さっこんべっして)多忙(たぼう)(つき)いずれ其中(そのうち)愚見可申述候(ぐけんもうしのぶべくそうろう)…」福沢諭吉 勝海舟 榎本武揚 瘠我慢の説 書簡 (aozora.gr.jp)と返書し、結局福澤が間を置かず死去したため、何の弁明もすることなく終わっています。幕臣時代にオランダ留学を経験し当代一流の知識人だった榎本は、実際この時期外務大臣の職にあり、多忙な日々を送っておりました。福澤諭吉などからの誹謗中傷は甘んじて受け、しかしそんなことよりも、自らの知見を新しい日本国建設のために役立てようと専心していたに違いありません。お雇い外国人の陰に隠れてしまっていますが、産業の近代化や北海道開拓、特に炭鉱開発などは榎本無しでは成しえなかったのです。

一方で、箱館戦争で共に戦った旧幕臣にも生涯心を寄せました。榎本が発起人の一人として函館に建てた『碧血碑』(旧幕臣慰霊碑)には何度も足を運び、戦争で死んでいった仲間たちを偲んでいます。幕臣中島三郎助は長男次男の息子たちと共に箱館で討ち死にし、幼かった三男だけが生き残ったのですが、釈放された榎本はこの三男を留学させるなどして面倒を看、結果三男は海軍中将にまで上り詰めました。また、旧幕府軍降伏時に榎本の自刃を素手で阻止しそれがきっかけで手が不自由になった大塚霍之丞は、榎本の農場で支配人として雇われ、彼が死去したとき榎本は一人部屋に籠り号泣したと伝えられます。

公園に一人ぽつねんと立つ榎本の銅像の周りでは、そんな過ぎ去りし日の物語を知ってか知らでか、「チーチー」という虫の音だけが響いています。

参考文献:函館市史デジタル版/福澤諭吉著『瘠我慢の説』(青空文庫2006年11月7日)/福澤諭吉、勝海舟、榎本武揚著『瘠我慢の説 書簡』(同)/黒瀧秀久著『榎本武揚と明治維新―旧幕臣の描いた近代化』(岩波ジュニア新書2017年12月20発行・2021年12月2日絶版)/佐々木譲著『武揚伝』(中公文庫2017年11月22日発行)

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