「差別」と言語の功罪

 いけないことであると大方の人が認めているにもかかわらず、いっこうに無くならないものが世の中には結構あります。その代表的なものの一つが「差別」であるといえましょう。人種、民族、信仰、歴史、文化、出自、性別、貧富、容姿など、差別の土台となるものは我々の生活のあらゆるところに存在し、紛争や争いの種となっています。

 そもそも差別はなぜ起きるのでしょうか? ネットなどで検索をかければ、だいたいはその原因を「偏見」としています。確かにそのとおりでしょう。違うもの、異なったものを眺めるとき、偏った見方をすることによって差別が生まれます。では、「違い」や「異なる」とはどういうことなのでしょうか? 「違うのは見ればわかる」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、そもそもこの世の中には「まったく同じもの」は一つとしてありません。基本的に同一時空に同一のものが存在することはできません(「量子もつれ」などのミクロの世界の不思議な現象はこの際考慮に入れないでください)。そういう意味では、同じ型式のネジですら全く違うと言いきれますが、ここでは差別に関係する「違い」のみに焦点を当ててみたいと思います。

 ここで少し言葉や言語というものに注目してみます。まずは最も身近な差別の土台の一つである「男女」という言葉。男と女は同じ人間でありながら明らかな違いを持ちます。そのために漢字圏では人間の二つの異なる形態に「男」と「女」の言葉が割り当てられ、英語圏では「man」と「woman」、もしくは「male」と「female」という言葉が与えられました。このまま差別の話からちょっと離れてみましょう。漢字圏の「兄弟」「姉妹」は、英語圏ではそれぞれ「brother」「sister」となりますが、「兄」「弟」「姉」「妹」にあたる個別の単語はありません(年齢の上下はelderやyoungerなどの形容詞を単語の前に付けて区別します)。「兄弟姉妹」すべてを包括する「sibling」という言葉はあります。日本語では「はらから」という言葉にあたりますが、現代日本ではほとんど使われなくなり、便宜的かつ一般的に「きょうだい」と言うようになりました。総括すると、我々漢字圏に住む者たちにとって「兄弟姉妹」の区別は必要だったが、英語圏ではそれほど重要視されることもなく、「きょうだい」を代替使用するようになった日本人には兄弟姉妹さえあれば「sibling」にあたる「はらから」が必要なくなってきた、ということなのでしょう。

 ところで、ここまで例示してきた言葉について、何かお気づきのことはないでしょうか? いろいろあるとは思いますが、私(田中)が注目していただきたいのは「語順」についてです。先に挙げた「男女」「兄弟」「姉妹」は、「女男」「弟兄」「妹姉」とは普通使いません。「man and woman」とは言いますが、その逆は稀です。代わりといってはなんですが、「ladies and gentlemen」という言い回しがあります。これはレディーファーストの精神に起因しているようですけれど、それだけにやはり逆の使い方はしません。では、「日米安全保障条約」はどうでしょうか。当然のごとく日本では決して「米日安全保障条約」とは言いません。しかしこの条約、アメリカでは「Security Treaty Between the United States and Japan」となり、アメリカのほうが先に来ます(日本で作られた英文では日本が先になっています)。ついでに、大学対抗戦でよく使われる「早慶戦」。メディアや一般で使用される場合は早慶戦ですが、慶応義塾大学生や同卒業生、教員などは「慶早戦」と呼びます。何が言いたいかと申しますと、言葉の使用時には必ず「区別」が発生し(区別するために言葉があるとも言えます)、語順が示すようにその区別された言葉には幾ばくかの「優劣」がつきまとう、ということです。特に縦書きが一般的だった漢字文化圏において儒教文化の名残が色濃く残る日本などでは、目上の人の名前を行の下に書くことすらしません。これは言葉や言語の持つ特性、詳しくは、人間の思考過程に裏付けられた言葉・言語の特性と言えるでしょう。「言葉を話す」「文章を書く」という、言語を操る作業は時間軸に添って行いますので(この世のほぼすべてのモノが時間の流れに縛られています)、区別された言語が同時に発せられたり書かれたりすることはなく、必ず同ベクトル上の前後、左右、上下などの場所に配置されることになります。

 では結局、人類は差別を根絶できないのか、と問われれば、現時点ではかなり難しいと言わざるを得ないでしょう。ヘイトスピーチは言語によってなされ、ゆえに、言語を持たないものはヘイトスピーチができない、という極論も成り立つのです。しかし、もちろん言語が悪だと言っているわけではありません。言語がどれだけ文明を発展させ我々の生活を豊かにしてきたかは言及するまでもありません。そして、差別を廃絶しようと思考する人間の行為そのものがまた言語のなせるわざでもあります。言語の発明によって感情をある程度コントロールできるようになった我々人類は、負の感情の籠った人間による「差別」という状態を、苦しみながらも克服しようと努力しています。今はその発展途上にあると言えるのではないでしょうか。

 「言葉」にはここに見るだけでも創造、破壊、分断、融合、修復などのさまざまな力が宿ります。ゆえに言語を使うとき我々は、喋り方や態度、表現などは言うに及ばず、言葉も慎重に選ばなければならないのです。それは個人の一生に限らず、何世代にもわたっての寛容と忍耐の連続となるでしょう。その努力と苦しみの果てには、もしかしたらSF作品に見られるような、情報の塊がテレパシーや信号のようなもので瞬時に伝わる、そんな技術を確立し言語自体を超克した未来がくるかもしれません。その時には、人間が言葉によって築き上げてきた文学や哲学は、言語の功罪に悩み抜いてきた人類の記録に過ぎなくなっていることでしょう。

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